君をみるしかなかった

儚い男の子の夢追う姿を傍観するだけ

残酷さを捨てられない

「強くなんかねえよ!」

 

 

彼の心の悲鳴が帝国劇場に響いた。客席には緊張が走った。

 

 

 

 

小さい頃に両親が離婚して女手1つで育ててくれた母。無理がたたり、病気になるも一度は回復した。しかし、再び病気が発覚したのだ。

 

「俺が上京するとき、母さんの頭に悪性の腫瘍が見つかった。手術をするとき、俺は舞台で踊ってて付き添ってあげられなかったんだよ。でも、俺が舞台に立って成長することが1番母さんに喜んでもらえるから。」

 

 

 

 

涙が溢れた。 

 

 

 

 

これが平野紫耀という人間が本当に歩んできた人生であることは、舞台初日の翌日の新聞で知ることとなった。

 

私は新聞の記事を目にしたこの日、この事実を1人では抱えきれなかった。私が抱えこむのもおかしな話だが、私の見ていた平野紫耀という人間の背景にこんな人生があることに耐えられなかったのだ。背負わされる人間はこうもドラマチックな人生を歩まねばならぬのかと心が痛んだ。同情ではない。

 

 

そうではなく、これからもきっと彼はフィクションのような人生を歩んでいくことを神に選ばれてしまった青年なのだと、そしてその人生を傷つき苦しみながら歩んでいく彼を私は見守るしか出来ないのだと確信してしまったのだ。彼の未来に干渉したくないおたくである私には何かをする権利が無いのだ。その事実に心が痛んだ。ただのおたくのエゴである。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は好きなアイドルの価値観や人生観をその人を構成するパズルのピースのように捉えている。ピースが全て揃うことは100%無いのだが、隣同士のピースが見つかったり、外枠ができあがったり、ぱちっとピースがはまる感覚がとても楽しいし大好きなのである。

 

 

 

(パズルの形は人それぞれで違うし、それは受け止め方が違うからで、自分なりのパズルが各々にあるのだ。そして誰かのパズルに他人がとやかく言う権利はない。自分なりのパズルを好きに作るから楽しいのだ。)

 

 

 

ただ、私の平野紫耀というパズルにはどこにおけばいいかわからないピースがたくさんあった。はまらないピースも、いつの間にか無くなってしまうピースもたくさんあった。隣同士のピースが見つかることは少なかった。

 

 

 

 

 

 

「絶対に東京に行きたくなかった」

 

 

 

 

この言葉の行方が分からなかった。このピースはどこにも置けなかった。そして、この言葉は私にとってとてもショックなものだった。

 

 

 

 

 

 

私は彼が望んで東京に出てきたのだと思っていたし、実際彼は、東京の方が活動の幅が広がりやすいことを耳にしておきながら、それでも、いやむしろだからこそ、東京から離れて目の届きにくい関西で活動していても注目してもらえるくらいの存在になりたいという野望を抱いて関西を選んだ。そして彼の努力の結果として東京の仕事にも呼ばれるようになり、東京での活動が中心になったのだと信じていた。

 

 

 

 

彼は自分の望みを静かに強かに確実に叶えてきたのだと信じていた。だから、〈絶対に〉東京に行きたくなかった理由が見つからなかったのだ。

 

 

彼にとって関西が大切な場所であることは分かっていた。ただ、彼を見る限り、彼の中では関西で活動していた頃とは上手く区切りがつけられているように見受けられた。過去を振り返ることはあっても振り向くことは無い人だと思っていた。私には〈絶対に〉という言葉が理解できなかった。

 

 

 

自分の目標とするところまで昇ってきたというのに。何故それを拒否したのか。ずっと答えが見つからずにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼のお母様のお話を聞いたとき、やっとパズルのピースをはめるべき場所がわかった。ぴたっとはまった。

 

 

 

 

きっと彼が〈絶対に〉東京に行きたくなかった理由は彼のお母様にあったのだ。私はそう解釈した。

 

 

 

 

 

ただ、まだその場面を見たこともないおたくが何かを言える立場ではないだろう。そう考えた。だから、舞台を見て自分の解釈が確信出来たら話そうと決めた。

 

 

 

 

 

「強くなんかねえよ!」

紫耀くんの怒鳴る声に体が固まった。泣きながら話す彼を見て、私も涙が溢れた。止まらなかった。

 

 

なのに何故か、なんの感情もなんの考えも浮かばなかった。観劇後も、だ。

 

 

 

苦しみも悲しみもいとしさも切なさも。なにも思わなかった。自分はロボットにでもなってしまったように感じた。某猫型ロボットですら、怒ったり泣いたり笑ったり呆れたりするのに、ずっと見たい、見なければと思っていた場面をせっかく見れた私には何も残らなかった。

 

 

 

 

私はきっと、彼が直接話す平野紫耀という人間に、平野紫耀という人生に、ちっとも興味がなかったのだ。私が興味を持つのは、文字で伝えられる彼の言葉、価値観、姿、その他諸々と彼の姿そのものであったのだ。

 

 

 

きっと私の脳内には平野紫耀の言葉で語られる平野紫耀という人間や人生に対する受容体が備わってないのだ。心が揺さぶられることはなかった。

 

 

 

涙が流れたのは、彼の姿からにじみでた儚さのせいだと思う。

 

 

 

 

彼の人生をSNSの言葉や新聞の文字で知り、あーだこーだ勝手に考えておきながら、直接彼のことを知れる手段として、彼の言葉を受け取ることができない。

 

 

 

 

きっと私はこれからも本人から直接語られる平野紫耀には興味を示さないだろう。文字という媒体を通して彼の言葉を聞かないと受け止められないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が残酷な人間であることを知った。

 

 

 

 

 

担降りブログが書きたかった

私はいつか担降りブログを書くためにはてなブログを始めることを我慢していた。しかしその夢は、12月23日、聖なる夜の前々日に叶わぬ夢となってしまった。私は叶うはずもない夢のためにいままでやりたいことを我慢していたのだ。

 

 

はてなブロガーには担降りブログを書くおたくを多く見かける。担降りブログをはてなブログ開設のきっかけにするおたくもまあまあいる。

私もその一員になろうとしていたし、なりたいと思っていた。おたくをする上ではてなブログを始めることは一種のステータスのように感じていたし、初めての投稿で担降りブログを選ぶとはなんて粋なんだろう!今まで応援していた人のことをずっと好きな人としての枠に収め、代わりに新しく好きになった人を応援していく枠に組み直す………なんてエネルギッシュなのだろう!好きな人が増えるたびに、自分の持っている好きという気持ちを配分し直すのではなく、さらに多くの好きという気持ちを増幅させてみる。増幅させていくうちにいつの間にか新しく好きになった子のほうがたくさんの好きという気持ちを集めてくる。だから今まで好きだった人の好きという気持ちの大きさを変えないまま、新しく好きになった人に担当を変える。なんて素敵なメカニズムなのだろう!おたくってすごい!私も担降りブログを書くことでその一員になりたい!そう思っていた。

 

 

一員になる前に私は住む世界が違っていたことに気づいてしまった。私の世界には担当という概念がなかった事に気づいてしまったのだ。

 

 

元を辿れば私がジャニーズに目を向けるようになったのは小学生の頃だった。小さい頃から嵐が好きだった。いつから好きかは分からない。だってずっと好きだったから。小さいころは嵐の苦悩も喜びも悲しみも知らぬまま、TVに映る彼らを眺めていた。たぶん、彼らが歩んできた道をその当時は知らなかったし、知っていたとしても、私の小さな脳みそでは理解できなかったと思う。ただ、TVの向こう側で笑ってる彼らを見ることが大好きだったのだと思う。その時はファンにもなれない、ただの観客であった。

 

そんな私が嵐のおたくになったのは2008年の嵐初の国立競技場のコンサートDVDを友人に見せてもらった瞬間だと思う。その時から私は雑誌で彼らの話す言葉に触れるようになり、彼らの歩んできた道を勉強して振り返るようになり、彼らのコンサートの演出の虜になり、TVに映る彼ら以外にも目を向けるようになったのだ。それは小学校高学年の暑い夏の出来事だった。私は彼らが世間を動かす勢いに比例するかのように彼らに夢中になった。私は嵐バブルの波に乗った永遠の新規なのだ。

 

あれから何年も経った。初めは櫻井翔が好きだったのにいつの間にか二宮和也に目を奪われ、つい最近大野智が1番好きな人だと公言するようになった。私の嵐歴の中ではダントツで二宮和也を好きでいる時間が長かった。彼の紡ぎ出す言葉が大好きだった。彼の捻くれた言葉が私の心の黒ずみを許してくれるかのようで心地良かったのだと思う。

 

私は以前、ツイッターで「私が1番好きな人は大野智だが、担当は誰かと聞かれれば二宮和也だと言いたいし、平野紫耀くんの担当ではない」と言った。違う。私は大野智の担当にも二宮和也の担当にもなれてなかったのだ。1番担当に近いのは平野くんではあるが、大野くんと私の距離感も、二宮くんと私の距離感もあの夏からちっとも変わらなかったのだ。

 

二宮くんの紡ぎ出す言葉が好きと言っておきながら、私は自分が立つ場所を動く事なく自分の手の届く範囲しか受け取ってきていなかった。ただ、嵐がたくさんの媒体でたくさんの言葉を発しているから、自分は彼らの言葉を追っているように錯覚していただけであった。じぶんから手を伸ばすこともしないくせに。人が言った事について考察するのが大好物な語り厨は、彼らの言った言葉を全て知っているかのような顔をして好き勝手にあーだこーだ言っていたのだ。

 

でも平野くん、Mr.KINGは違う。彼の言葉は自分から手を伸ばして貪欲に求めて行かねば、それが私の手に届くことも、目に入ることもない。彼のお仕事を1つひとつ確認しながら日々を過ごさないと大事な言葉は私の横をすり抜けてゆく。TV露出もびっくりするほど少ない。地上波のテレビのお仕事があるときにはおたくみんなでお祭り騒ぎをするくらいの貴重さ。自分が動き回って手の届く場所に移動し続けなければ彼の言葉はほとんど私の手元に届くことはないのだ。

 

 

 

担降りブログを読んでいると、1番好きな人が変わった、彼のことを考える時間が今まで好きだった人を越えた、そして圧倒的に、1番に応援したい人が変わったという言葉が書かれているように見受けられる。

 

ジャニオタの「担当」という概念が、"1番に応援したい人"というのであれば、きっと今の私の担当は平野くんであり、Mr.KINGなのだろう。

 

では、Mr.KINGに出逢う前、私は嵐を担当していたのだろうか…………

私が嵐を好きになった頃には、コンサートチケットはもう取れないグループになっていたし、こちらが何かアクションを起こさなくてもTVに出ていた。CMのあれこれもメンバーが起用され、見る日はないというくらいに彼らは嵐という地位を確立していた。そして嵐バブルは弾けることなく今に繋がっている。

 

 

私は彼らがどんどん天に昇って行く姿を地上からじっと眺めているだけであった。観客は傍観者になったのだ。彼らの追い風になることもエネルギーになることもせず、ただただ彼らが時代を動かす姿を眺めていたのだ。一方的に幸せを受け取るだけで、彼らが今後はこうなるように、、と将来を考えて彼らの背中を押すようなことは一切しなかった。彼らの未来に影響したくなかったのだ。

 

 

しかし、Mr.KINGは違った。

 

 

 

 

 

 

 

 

と、言いたかった。しかし、きっと私は何も変わっていない。Mr.KINGのことを応援していると言いながら、彼らの未来に影響を与えたくは無いのだ。彼らの、平野くんの言葉を追いかけては自分で噛み砕き、理解して自分なりの見解を述べる。彼らが話す過去を私は最大限に消費している。対して、彼らには将来ああなってほしい、これをやってほしいと願望を言ってはいるものの、彼らの未来の出来事に私が関わるようなことはしたくないと思うのだ。彼らの背中を押せば、私の行きたい方向へと力を加えてしまうだろう。それだけはどうしたって避けたい。

 

 

「応援したい」という気持ちだけで見れば私はきっと立派なMr.KINGの担当であるのだろうと思う。しかし、応援には彼らの追い風になることがまるで必須条件かのように彼らの未来に積極的に関わろうとするおたくがたくさんいる。右を見ても左を見ても、前にも後ろにも、なんなら上だって下だって、私はそのように思っているおたくに囲まれているように感じる。私もそこからはみ出さないようにまるで彼らの未来に関わりたいのだ、と言いたげな顔をして馴染もうとしている。

 

 なのに本心では彼らの追い風になって軌道をずらしたくない、彼らの応援はするが、彼らに届ける声は「応援してるよ」以外なにも言いたくない、彼らの知らぬところで、彼らの未来について願望を叫びたい、と思っている。きっと私は誰の担当にもなれないのだ。

 

 

それでもジャニオタの文化としての「担当」という概念は、アイドルとファンの関係を特別なものとして肯定してくれる。その担当制度を愛するジャニオタが多くいるだろう。「誰担?」がまるで合言葉かのようにSNSでも現場でも自分の好きな人に関して会話がなされる。

 

ジャニオタである限り、この文化は切っても切り離せないだろう。私はきっと「誰担?」と聞かれれば、「大野担」「平野担」と答えるし、「誰担?」と聞き返すだろう。私はまるで、大半のジャニオタが住む世界と同じ世界で暮らしているのだという顔をしておきながら実際は、だいぶかけ離れた世界に家を構えている。私にとっての「担当」という言葉は、便宜上使っているだけなのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は担降りブログを書けなかったのだ。